忘れもしない令和7年5月13日、火曜日の夜9時に君は何をしていたか? 連休明けの五月病でダウンしているようでは失格、テレビの前に座っていれば合格。この日はTBS系「マツコの知らない世界」:モーションキャプチャの世界コーナー内の、テレビゲームの歴史をたどる流れの中で、国産初のテレビゲーム製品テレビテニスが紹介された日なのだ。1
オンエアはたった7秒間。しかし一瞬とはいえ、ゴールデンタイムの人気番組で取り上げられたのは快挙。それを記念して、筆者がエポック社の取材を通して聞いた談話やほとんど世間では知られていないとっておきの話を、7秒間にひっかけて7つ紹介。独自取材の極みだがWikipediaにも載っていない。これからあなたの眼はあなたの身体を離れ、テレビテニス世界へと旅立ってゆくのです。
【1】最初の1台が売れたのは都内のデパートだった
たしか三越百貨店か伊勢丹(←※ちゃんとうかがったのだが筆者がそのメモをなくしてしまった!)。
これ、エポック社の当時の営業の方から個人的にうかがった情報で、「朝礼で『昨日、テレビテニスの最初の1台が売れました!』と報告があったんですよ~」とのこと。かつてない高額商品ゆえ、会社的にもハラハラドキドキだったわけね。

【2】少年マガジンの懸賞になったことがある2

週刊少年マガジン(講談社)1975年45号と49号の2度にわたって掲載。定価19,500円の商品が当選15名(→49号では10名に減少)とは大盤振舞だ。実はこれ、抽選に応募しなくても、欲しい人はエポック社に代金を現金書留で送れば手に入るという二段構え。よって懸賞と言うよりは提携企画と言うべきか。巻末の見開きが19,500円(←いや原価はもっと安い)×15=292,500円でゲットでき、しかも漫画家の”卵”か、アシスタントあたりが描いた魅力的な3カット付きなのだから、出版社、読者、玩具メーカー3層ともどもお得なイベントと言えよう。

特別頒布の項目が大きくなり、当選人数が減った(^^;
右下の『ゲームセンターと同じ』という見出しに注目。昭和50年末は、テレビゲームを説明する際には「あれ、あれのことですよ! あなたも見たことがあるでしょ?! 繁華街やボーリング場内などにあるゲームコーナー/センターで動いている、ブラウン管に映っている、二人で100円を入れてプレイする、あれと同じ機械ですよ!!」と紹介することがもっともわかりやすい時代だったのである。おなじみの「テレビゲーム」という単語も(世の中にはあったかもしれないが)一切出てこない。
当時、玩具業界では「ゲーム」と言えばボードゲームを指していたためだろう、アナログゲームと差別する意味で「電子ゲーム」という単語が頻出する。本体にはELECTRO TENNISのシールが中央にデーンと張られている。あまりにもベタな『テレビテニス』という名称も、そうせざるを得ないマーケティング上の事情=自信の無さがあった。時代の(無言の)証言としても見逃せない。
【3】ガシャポン化されたことがある


2005年に「エポック社の伝説のテレビゲーム」として他の歴代エポック社家庭用テレビゲーム機とともに同社よりカプセル玩具化。200円。この時、テレビベーダーだけがすっ飛ばされたのが実に興味深い。どう考えても版権の事情だろうが、カセットビジョンのきこりの与作(元ネタはSNK)は、シークレットであるテレビ受像機の紙芝居の絵に採用されていた。
そうそう、版権で思い出したが、付属説明書の一部のテキストが、うちCVS.ODYSSEY2001の丸写しだったのにはびっくりした。あるルートを通じてくぎを刺しておいたが、そうか、もう20年も前の話か。
【4】テレビテニスより前にも、国産家庭用テレビゲーム機はあった?

例えば新津氏の電子ホッケー(写真↑)の記事は、1975年の7月頃に書店に並んでいるから、テレビテニス発売とほぼ同時期である。また、電子機器の専門誌などに「4年ほど前にアメリカの雑誌の製作記事を見た。ボール以外にも作った」(電子展望1976年8月号p.76「Micro TV Game」を要約)や、「1973年、国内で最初のホームビデオゲーム機器の開発を行った」と、1975年より前にも日本で家庭用ゲーム機が誕生していたと思しきエピソードが散見される。

※筆者注:「開発を行った」とあるが完成したとは書かれていない。
また電波新聞にこの会社のビデオゲームが載ったのはおそらく1975年10/14
日本では1973年中頃から業務用のビデオゲームが繁華街のゲームセンターで稼働していた。まして中身のモニタは家庭用テレビを流用していたわけで、ハード屋が自作したくなるのはもちろん、何千万台と普及している家庭用テレビ向けにゲーム機を作って売った方が儲かるのでは、と考える起業家も多かったはず。
しかしここからが重要。個人用ならいいが、製品として売るとならば、当時は基本特許料の窓口であるMAGNAVOX社に10万ドル、当時の為替で約3000万円というパテント料を支払う必要があった。
先に紹介されたゲーム機はどれも試作レベルで量産されていない、つまり製品ではない。
製品化するためには、商業的な成功を目指さなければならない。発注先、量産にかかる原材料費、経費、運搬費等を綿密に選別・計画・管理・遂行しなければならない。
エンドユーザーに渡す為には安全性も考慮されなくてはならない。ご家庭のテレビを故障させてはならない3。故障した際のアフターサービスも行わなくてはならない。そもそも故障が起こるような製品を作って流通に迷惑をかけてはならない。まだまだあるよ。
この時点まで商業的成功例がない家庭用テレビゲーム機4に対し、パテント料をはじめとする多くのリスクをしょいこみ、量産化し、玩具安全基準であるSTマークまで取得して世に出したのが、野球盤や魚雷戦ゲームなどのゲーム玩具でヒット商品を持つエポック社であり、前田竹虎社長の決断だったわけ。
1品つくるだけとはわけが違う。国産第一号の重みは、目にとらえにくい縁の下が支えている。
【5】銀色の日立家電系列発売版が存在する


その名は「ビデオゲーム(VIDEO GAME)」とまんま!(検索に出にくい)。仕様もゲーム内容もテレビテニスと全く同じ。
関連文献やカタログが未発掘のため詳細は不明なのだが、付属マニュアルにはエポック社の名前が明記されている。おそらく電気店に並べる際に「赤色では玩具を想起させるのでは?」という懸念から、シャープな名称やデザインに変更したのではないか。今でいう色バリ品なのだろう。5

本機をネットオークションで落札した際、ご出品者宅が、かつて日立家電販売の系列電気店系で販売していたことを教えていただいた。「遊具を売る感覚ではなく、日立のテレビを売るためのオプションとして仕入れたものだった」とのご回想。
なお日立製作所は、1977年春にも銀色のボールゲーム機VG-104を発売するが、これも外箱に製造:エポック社の表記がある。
【6】なんと背面は木製である

テレビテニスの外側は硬質プラスチックだが、背面には、昭和のテレビやラジオ、ステレオなどの背面に頻繁に使われていたパーティクルボードが使われている。細かな木片(主に未利用材や残材)を繊維レベルに分解し、樹脂などをしみこませて再形成した”板”である。
天然木に比べて安価で、軽く丈夫で、穴あけなどの加工がしやすいなど利点が多い。また当時の音響機器は高熱を発したため、耐熱や廃熱の観点からオールプラスチックを避けたのでは。
半面、上の写真のように、湿気などによるシミやカビが発生することがある。
テレビテニスに使われていたのは、製造を手掛けたと言われる白光無線が、ステレオ機器のアッセンブルメーカーだったことと関係あるのかもしれない。材料が調達しやすかった?
以降の家庭用テレビゲーム機の素材は、オールプラスチック(硬質)か主流になる。6
【7】今年発売50周年である

昭和50年は1975年9月12日発売だから、今年(2025年)は生誕50周年というアニバーサリイヤーだったりする。もちろん国産テレビゲーム製品では初。今回マツコ~で取り上げられるには絶好のタイミングと言えた。え?マスコミも知らない??
当時の宣材の見出しが「見る時代のテレビから、つかう時代のテレビへ」であり、”遊ぶ時代のテレビへ”ではなかったのが興味深い。

(c)C.V.S.ODYSSEY
当時の販売対象者は大人の男性と思われるが8、この頃の日本は大人が堂々と遊具を買うことがはばかれた時代であり、一歩ひいて「つかう」「TVを一段とグレードアップ」等ごまかしているのだ。テレビテニスは遊び以外の何物でもないのにね。
なお「見るテレビから遊べるテレビへ」と堂々たる宣言を叩き付けた製品が、1977年6月の任天堂テレビゲーム6/テレビゲーム15である。さすが。
今では、幼児向けカードゲームに平気で並ぶ(一部の)大人たち、もとい、働きすぎて余暇を過ごすのがへただと言われていた50年前の大人たち。50年経つと風俗も文化も変わる。今年、マスコミでテレビゲーム機がどのように報道されるか、またされないのか?に注目してみたい。

(c)C.V.S.ODYSSEY
7つに収まらなかったがまだまだある極秘ネタ!
- サトウサンペイ先生の風刺漫画「夕日くん」に登場している(>号数確認中)
もっとも掲載は1977年の第一次テレビゲームブーム頃で、テレビテニスそのものではない。が、象徴的に名称や似たデザインが使われたのは、存在感やネーミングのおかげか。「ただの■じゃなあ。やっぱテニスウエアの女性でないと」みたいな”ふてほど!”ギャグ満載で楽しめる。 - 実はあまり売れてなかった
販売台数については…- 竹虎社長の「4万台」発言
- 「すでに2万台を販売した」(読売新聞1976年10月26日朝刊8P)
- 「当初生産した2万台を1年間で売りさばき」(レジャー産業資料1977年1月号)
- エポック社広報宣伝部部長・谷口氏「50年9月から51年11月までに約5000台販売しました」「51年クリスマス商戦では当社製品が完全に品切れとなりました」(ブレーン/誠文堂新光社/’1978年6月号p.104)
…と諸説ある。同社のゲーム機の数字は記名記事でも大間違いが多々見られ(⇒カセットビジョンは4ビット機と複数回明言等)、どれも決定的とは言えない。が、広報宣伝部部長の名前で広告&マーケティング雑誌に発表し、内容も最も具体的なものは(4)である。
- 白光無線は本当にテレビテニスをつくったのか??
…などなど。ナゾは続くよどこまでも。
【脚注】
- ファンタスティックコレクションNo2・空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン(朝日ソノラマ/1978年)/『きみはウルトラQを見たか』序文のパロディ。未だにソラで言える。そういえば同じTBS系だね。 ↩︎
- この他にも週刊少年チャンピオン(秋田書店)、プリンセス(同)紙上でも「テレビテニスSP大作戦」という30名へのプレゼント企画が行われた模様→ソース
また、NTVの伝説的バラエティ番組「噂のチャンネル」にてタイアップが行われたと昔の私が書いた記事がある。しかしソースを完全に失念。何だっけ?? ↩︎ - テレビテニスとテレビとのやり取りは受信アンテナをUHFアンテナにつなぐだけで、VHFアンテナを加工してスイッチボックに接続するといった、テレビをプチ改造する作業は必要ない。ワイヤレス方式にした理由はここにもあるのかも? ↩︎
- 家庭用テレビゲーム製品がアメリカでブームを呼ぶのは1975年の年末以降。これ以降、日本のアッセンブルメーカーがこぞって輸出用テレビゲームの下請け生産に乗り出す。 ↩︎
- テレビテニスの販売チャネルに家電ルートを活用という記述が当時の雑誌にはある。 ↩︎
- 他の背面が木製な据え置き型テレビゲーム機:テレポン(テレビテニス互換機)、東芝ビデオゲームVG-610など。いずれも白光無線やエポック社系列で製造したテレビゲーム機と関係がある本体ばかり。 ↩︎
- トイジャーナルかトイズマガジン。確認して修正予定 ↩︎
- 高額商品ということや、テレビ背面へのアクセス権、パンフレットのデザインから推論して。もっとも、欲しがったのは子供 ↩︎
関連項目
- リビングにてテレビゲームを囲む4人家族の構図 – Classic Videogame Station ODYSSEY 2025
- なぜ、黎明期のテレビゲームのパンフレットは、4人家族がテレビを囲んでいるのでしょう? – Classic Videogame Station ODYSSEY 2025
文:寺町電人(2025.5.13)